産経新聞 [2004年07月26日 大阪夕刊]
【関西笑談】笑いを学問する(1)関西大学名誉教授 井上宏
聞き手 荻原征三郎記者
いくつかの顔を持つ人である。大学で長く情報メディア論、コミュニケーション論などを研究するかたわら、「笑い」について考察し「笑い学」の確立をめざす。大阪や上方の文化、演芸の造詣が深い。はんなりとした語り口には、古き良き時代の雰囲気が漂う。暑さ厳しいこのごろ、気分だけでも浴衣姿で縁台に腰掛けたつもりになって、ご隠居といってはなんだが、「緑陰談義」をお願いした。
荻原 大阪の商家のお生まれですってね。
井上 父親は金物問屋「池芳」の三代目芳兵衛を名乗っていました。店は博労町三丁目、難波神社の近くですな。四男二女の二男です。
荻原 大阪の中心ですね。いつころまでいらしたのですか。
井上 池芳時代はそんなに長くはなかったようです。父親もなにか考えることがあったんでしょうな。金物問屋を弟に譲って独立しましてね、家具や室内装飾の商売を始めました。いまでいうインテリアですな。わたしの子供のころは今の靱公園のある靱上通り二丁目に移っていました。戦時中の小学校二年の時、滋賀県にある親類の家に縁故疎開しましてね。そうこうしているうちにあの大阪大空襲ですわ。家も焼かれて家族全員、滋賀の野洲に引っ越して、その後に大津の粟津というところでしばらく仮住まいしました。小学校卒業までそこに住んでいましたから、小学校の母校は膳所小。
荻原 田舎の生活も経験しているんですね。
井上 小二から六年までの四年くらいの生活でしたが、なんとなく原体験として焼きついているんでしょうね。今でも大阪の雑踏の雰囲気も好きだし、田舎も好き。家内に「あんたは心斎橋の人込みでも人にあたらんよう、うまいこと歩きますなあ」。そのくせ、田舎道ではのんびり歩くようで「大阪ではあんなに早足なのに、どないなってますのや」と笑われています。
荻原 ところでお話のなさり方は実に穏やかでやさしい。大阪言葉なんでしょうか。
井上 誤解されがちですが、大阪の言葉は本来やわらかでやさしいものなんですよ。自分では意識したことないけど、桂米朝師匠に似ている、と言われたことがあります。父親はいわゆる船場言葉でした。その影響があるのかもしれませんな。そしてわたしは父親抜きに大阪を語れない。大阪商人だった父親から受け継いだことは実に多いですね。
荻原 そのあたりをこれからじっくりうかがいましょう。