産経新聞 [2004年08月2日 大阪夕刊]
【関西笑談】笑いを学問する(7)関西大学名誉教授 井上宏
聞き手 荻原征三郎記者
荻原 お互いの距離を近づけ、その場の雰囲気を和ませる「笑い」の効用は、たいしたものですね。
井上 よく大阪商人は打たれ強いといわれます。景気の波が大きくて、追い込まれる場面が多かったのですね。それでも、いつまでも落ち込んでばかりはいられない、どないしてでも立ちあがらねばならない。そこで出るせりふが「笑わなしゃあないな、ここは!」。これはね、自分のぶざまさを認め、「笑わなしゃあない」と言い切ることで、ある種の居直りをするわけですよ。
荻原 居直りですか。
井上 そう。笑う前はとことん落ち込んでいた。ところが笑った後の自分は違った。これをわたしは「笑いの無化作用」と呼んでいます。落ち込んでいるとき、とにかく寄席にでもいって笑ってみる。笑えたらしめたものです。ゲラゲラ笑っている間は、なにも考えていないでしょ。その間に憂さが飛んでいるのですよ。無化、つまり自分を無にしてしまうわけです。この効果は軽視できない。
荻原 おっしゃるように、暗い顔をしている自分とワッハッハと大笑いした自分では、別人になりますね。
井上 大いに笑った後、「こんなことしていたらあかん」「暗い顔しててもなんにもならん」と気付く。こうして自分を取り戻すのです。笑いが元気をつけてくれるのです。こんな話もありますよ。不登校のこどもをむりやり吉本新喜劇に連れていったら、いつのまにか笑っていた。この子の笑顔を久しぶりに見たなあ、と喜んでいたら、なんと学校に行きだした、親御さんはびっくりですよ。これはね、その子を締め付けていた「なにか」が、笑ったことでストーンと落ちたんだと思います。笑いにはそういう効果があるんですよ。
荻原 笑いは病人にも効果がある、といいますね。
井上 大阪の淀川キリスト教病院で終末期医療に取り組んでおられた柏木哲夫先生のお話を紹介しましょう。食道がんで入院されたご婦人は、食事も受けつけない状態で「もう一度口から何かを食べたい」が口癖でした。ある日、柏木先生が「どうですか」とたずねる。「あいかわらずです」「何が一番食べたいですか」「マグロのトロ」「そうねえ、詰まらずにトロトロと入ればいいですねえ」「トロがトロトロって、先生もおもしろいこといわはる」。ここで入院来初めてにこっと笑ったそうです。そして「わたしもトロトロ眠ってばかりいないで、がんばってトロを食べてみますか」。すると付き添っていたご主人も「わたしもトロい男ですが、トロくらいは買いにいけますので、これから買ってきましょう」と調子をあわせてくれる。さて夕方の診察で病室を訪れると「先生、トロをふたつも食べました。おいしかったですよ。吐いてません」とおっしゃったそうです。
荻原 うわぁ、すごい話ですねえ。
井上 柏木先生は不思議でならない。前日までは水も通らなかったのにどうしてだろう。生理学的には説明ができないわけですが、先生は医者と患者の間でのユーモアある会話が患者の心をほぐしたのかもしれないと考えておられます。「笑いの不思議」としか言いようがありませんが、笑いにはそんな効用もあるようですねえ。